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「長寿村棡原」の碑は棡原の入り口、棡原大橋のたもとの小さな広場にあります。バス停登下入口下車。付近は森閑としており、聞こえるのはときたま通る車の音ぐらいです。ベンチなどはありませんが登山客がバスの乗り降りに利用する場所にもなっています。
碑の背面には以下のような言葉が記されています。
建碑のことば
鶴川の河岸段丘に発達したわが棡原は、山紫水明、耕して山頂に至る。古来村人は健康で人情に篤く、粗衣粗食、耕雲種月の日々を楽しんできた。穀菜食を主とし、肉食を嗜まず、女性は多産且つ母乳豊富、老人は皆天寿を完うし、まさに身上不二の桃源境である。
昭和四十三年盛夏、東北大学近藤正二名誉教授と、甲府市古守病院長古守豊甫博士父子により、はじめて長寿村としての折紙を付けられた。以来内田厚生大臣の視察、在ブラジル森口教授ら多数の学者の調査研究により、世の脚光を浴びるに至った。
顧れば昭和十三年春四月、十八才の青年古守氏は、棡原小学校の代用教員として赴任すべく山行三里、途中鴬がしきりに鳴くここ登下沢の地に一憩した。在任一年、東京医専に進学して医師となるや、この山村には何かがあるとの疑問を抱き続けた。この直感こそは長寿村発見への啓示であり、以来甲府市における医業の寸暇を割き、情熱を傾けて棡原住民の健康管理と指導に当った。同時に土着の生活の知恵たる風俗、習慣、食生活の研究を行い、名著「長寿村棡原」を世に問うた。昨秋これが武見太郎日本医師会長の認めるところとなり、最高優功賞の栄誉に輝いた。
不老長寿は人類の悲願である。特に高度の公害下に在る現在ほど国民大衆が健康と長寿への渇望を、医学に期待している時はない。この秋に当り同志相図り、長寿村の栄光と使命を永く後世に伝えるべく、汎く江湖の熱望を結集してこの地に記念碑を建てた。
願わくば日本医学における、長寿学発祥の礎とならんことを。
昭和五十二年四月十日 山口民蔵撰 内藤香石書
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