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地図(境川-上野原宿)
境沢橋
 現在の国道20号線「名倉入口」の信号から左に入ります。数軒の家が立つ中を少し下ると、境川にかかる境沢橋に到着です。
 上野原市と神奈川県相模原市(2007年3月〜)の間を流れるのが境川です。相模国と甲斐の国の国境をなすところからつけられました。水源を棡原地区に持ち、相模原市佐野川・小淵と、上野原市との間を南に下り、桂川に合流します。その合流付近にかかるのが境沢橋です。上野原の甲州街道はここから始まります。
 境沢橋を渡ると3分程で県道520号吉野上野原停車場線にあたります。左折すると、桂川にかかるアーチ型の堤川橋があり、橋からは上流、島田地区が望めます。甲州街道を行くには右折し、乙女坂をのぼります。
境沢橋 境沢橋から上流 堤川橋 堤川橋から桂川上流 藤野方面
境沢橋 境沢橋から上流 堤川橋 堤川橋から桂川 乙女坂から藤野
 うねうねと続く坂を7分ほどのぼると、左手に甲州街道の案内板、右手の石垣の上に諏訪番所跡の案内板と碑が見えてきます。付近では上野原自動車教習所が目立ちます。
 諏訪番所は、武田氏が北条などからの防備のために設置したのが始まりだそうです。甲斐二四関の一に数えられ、当初は諏訪神社の下にありましが、抜け道を通る者を防ぐため、宝永四(1707)年谷村藩秋元但馬守喬知支配のときに乙女坂の上に移設されました。乙女坂の下にあった茶屋も監視役だったといいます。 移転時出された一二カ条の定によると、番所は明六ツ時―暮六ツ時(午前六時頃―午後六時頃)の通行とするなどとされています。一般に「入鉄砲に出女」といわれますが、諏訪番所での通交手形改めは、男は上り下り不要、女は江戸へ上るときだけ必要でした。
諏訪番所役宅配置図
諏訪番所案内板 諏訪番所案内板 甲州街道案内図 上野原教習所
案内板と碑 諏訪番所跡案内 甲州街道案内図 上野原教習所
 正徳三(1713年、)松平甲斐守預所のとき山内利勝が口留番に任じ、以後累代山内氏が勤務するようになりました。扶持米は二十俵でした。
 明治四(1871)年に番所は廃止され、役宅は山内国太郎所有となりました。明治十三(1880)年の明治天皇巡幸の折に、御小休、お召し替え所となり、明治十七(1884)年、渋沢栄一氏の別荘として現在の東京都北区飛鳥山へ移転しました。その後は小泉策太郎氏の所有となり、以後不明ということです。諏訪には、番所の遺構として、現在ごくわずかな石垣が残っているだけです。
慈眼寺
 諏訪神社の手前の赤い矢印のついた看板に沿って右手に入ると、慈眼寺です。護国山と号し市内曹洞宗保福寺末に位置します。文禄二(1593)年の建立とされ、慶長七(1602)年、保福寺二世広山宗沢が隠退後の開山ということです。
船守寺 船守もなか
日蓮宗船守教会 船守もなか
 諏訪神社の隣にあります。昔諏訪に弥三郎という人がいましたが、わけあって郷を出て、伊豆国伊東の浦で漁師をしていました。弘長元(1261)年5月12日、鎌倉幕府によって日蓮がまないた岩に流されたとき、弥三郎夫婦が世話をしたところ、日蓮より「船守」の御名を授けられたといいます。
 その徳を称うべく、出生地である諏訪に昭和30(1955)年、静岡県伊東市蓮慶寺から弥三郎の骨を分骨、ここに記念碑が建設されれました。新町の植松菓子店では、弥三郎をモチーフにした「船守もなか」が販売されています。
諏訪神社
 諏訪番所跡を過ぎて上野原教習所の横を進むと、右カーブの先に諏訪神社の社叢が見えてきます。教習所から7分ほどで鳥居前に到着します。
 口碑に久安年間(1145-50)に創建、村の伝えには文永年間(1264-75)の大覚禅師(建長寺を開山)の勧進といいます。御祭神は、長野県諏訪市の諏訪大社をはじめとして、全国の諏訪神社に祀られている建御名方命(湖の神、軍神、狩猟神、農耕神)です。
諏訪神社鳥居 諏訪神社本殿
諏訪神社鳥居 諏訪神社本殿
 かつて、1143年に上野原全体を支配下においた古郡氏の神社だったそうで、現在も「古郡神社」の額が社殿に掲げられています。天正五(1577)年、上野原村領主加藤信景が再建、慶長一五(1610)年、寛永一五(1639)年に本社が修復されました。
 境内は小さな公園のように整備され、近所の方々の憩いの場になっています。神社の前には売店もあります。
諏訪 諏訪
教習所の先のカーブを曲がって少しいったところ 諏訪神社前の坂(右が諏訪神社)
諏訪の竹林
 諏訪神社を過ぎて坂を上ると左側が桂川へ下るがけになりますが、そこから大きな家の前にかけて竹林があります。昔、防風林として、秋元但馬守が植えさせたものだそうです。(上野原町誌によれば享保年間(1716-1735)の事ですが、既に1704年に谷村藩が廃止、天領化されており、谷村藩主の秋元氏は川越へ転封、都留郡は河原氏の支配下にありました。)
 このあたりは「しばまくりの風」(芝捲くりの意)と呼ばれる風が強く吹いたそうです。秋元但馬守が通行中に陣笠を飛ばされてしまい、それをきっかけに防風林を作ることになり、明治維新前まで伐採が禁じられていたとか。中央線工事の際に竹を切ったところ、その年大被害が出たため、再び植林されたそうです。
上諏訪 中央高速
ゆるやかな坂を上りきると中央高速 橋の上から
塚場
 塚場は中央道を渡ってすぐのところにあります。かつて甲州街道の一里塚があったところです。日本橋から一八里(70.62キロメートル)、17番目のものでした。この前は関野、次は大椚の一里塚です。
 一里塚の築造は、慶長九(1604)年将軍秀忠が一里塚の制を定め、大久保長安が監督してはじめられました。塚は五間四方(9メートル四方)の大きさで築かれ、その上に一本ないし数本のエノキ、ケヤキ、松、モミなどの木が植えられていました。木は目印としてだけでなく休憩所としてもよい役目を果たしました。この塚に植えられていた木はモミかカヤだったようです。
 現在は疱瘡神が祀られています。
塚場 新町一丁目
塚場の前からはずっと直進です 上野原郵便局の先で国道20号に合流
動画 境川〜上野原宿 境川から上野原宿までをたどりました。40分〜50分程の道のりです。
……つづく
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